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今だから全部話すT中研™盛衰秘話 ②「くるまにあ」の時代

福野礼一郎のTOKYO中古車研究所™ 第158回

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今だから全部話すT中研™盛衰秘話 ②「くるまにあ」の時代

「TOKYO中古車研究所」などと大袈裟なタイトルですが、私=福野礼一郎が1993年から2012年まで自動車雑誌3誌で152回連載し、多くの方に読んでいただいた連載記事のタイトルの復刻です。Topper編集部の依頼で11年ぶりに連載再開しますが、内容的には単なる「私的ブログ」です。Topperのコンテンツの中では一人浮いてると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
TEXT&PHOTO:福野礼一郎(Rei-ichiro FUKUNO)

(本文文字量15000字) *通常は雑誌1ページで2000〜2500字

(本文13000w)

余談:台場と天王洲

良心的中古車屋(有)スティックシフトの車庫兼事務所があるのは東京都品川区の天王洲運河の近く。東京湾岸一帯の例にもれず、このあたりも江戸時代は江戸湊西岸に広がる浅瀬の海だった。

1751(宝暦元)年ごろ、このあたりで漁をしていた網に牛頭天王(ごずてんのう)の面がひっかったことから「天王洲」という地名がついたそうで、「ごめんそうさま」とよばれたその面は天王祭の神輿につけられ、豊漁を祈願してそれを担ぎ、海に入って海岸を練り歩く祭りの風習を「お里帰り」と呼んでいたという。

1853年7月8日の黒船来航に慌てた江戸幕府は、老中首座の阿部正弘の命で江戸湊の海上砲台の建設に着手する。現在の東京湾の入江付近を東西に横断するように11個の海上砲台を築き、そこに大砲を据える計画を立案した。高輪の八ツ山、品川の御殿山から切り出した土砂をまず東京湾西部、品川海岸よりの3ヶ所の浅瀬や州に運んで埋め立て、周囲を石垣で囲んで強固な土台を築いた。第一台場は現在の品川コンテナ埠頭南部付近(現在埋立地に埋没)、第二台場はレインボーブリッジの南側に二つ並んでいる旧防波堤=鳥の島の西側(1962年に解体・撤去)、そして第三台場は現存する場所(お台場)にそれぞれ8ヶ月間の突貫工事で作ったという。

品川の海岸の天王洲に遅れて完成した第四台場は、荒れ果てたまま「崩れ台場」と呼ばれ長らく放置されていた。第四台場がのちに浦賀船渠株式会社の設立に参画することになる実業家、緒明(おあけ)菊次郎に払い下げられたのは1883(明治16)年。そこに緒明造船所が作られた。菊次郎は造船所を一望できる品川の高台に邸宅を構えたという。国道15号=第1京浜の品川神社近くの住宅街にはいまも「緒明横丁」という名称が残っている。

1925(大正14)年に埋立地の拡張が始まり、第四台場はそこに飲み込まれて大小の工場や倉庫が建つ。ここにオフィス、商業施設、高層マンションなどを建設して「天王洲アイル」と命名したのは1991(平成3)年だ。

著者
福野礼一郎
自動車評論家

東京都生まれ。自動車評論家。自動車の特質を慣例や風評に頼らず、材質や構造から冷静に分析し論評。自動車に限らない機械に対する旺盛な知識欲が緻密な取材を呼び、積み重ねてきた経験と相乗し、独自の世界を築くに至っている。著書は『クルマはかくして作られる』シリーズ(二玄社、カーグラフィック)、『スポーツカー論』『人とものの讃歌』(三栄)など多数。

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