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注目を集める「水素エンジン」はなぜ普及しないのか |200年前の「水素内燃機関構想」からあらためて考える

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注目を集める「水素エンジン」はなぜ普及しないのか |200年前の「水素内燃機関構想」からあらためて考える

電気自動車の対抗馬として登場したはずの水素自動車。世界各国の自動車メーカーが研究・開発を進める中、なぜそれが普及しないのか考えたことがある人は少なくないはずだ。トヨタが日本の自動車メーカーとして初めて市販化したMIRAIも、発表当初は注目を集めたものの、現在では完全になりを潜めている。一部からは「走る水素爆弾」などと呼ばれたこともあったが、MIRAIの登場から10年近く経過した現在、注目はされるもののイマイチ普及はしない水素自動車。世界中から注目を集める電気自動車との違いとあわせて見てみよう。

内燃機関発明の黎明期から存在した「水素内燃機関構想」

水素内燃機関(World History of the Automobile from Eckermann, Erik - 2001)

トヨタがMIRAIを発表した2014年当時、日本は従来の燃料に変わる新エネルギーの研究開発に躍起になっていたように思われる。現在でこそSDGsを始めとする環境問題に積極的に取り組む企業が増えつつあるものの、当時はそこまでSDGsという言葉も一般的ではなかった。日本が石油に代わる燃料資源を本格的に探し始めたのは、おそらく2011年の東日本大震災が深く関係しているであろう。原子力発電の安全神話が崩壊した瞬間であり、日本が、いや世界が新たな安全性の高いクリーンなエネルギーを求め始めた。そこで注目された候補のひとつが水素というわけである。


燃料電池自動車 MIRAI(トヨタ)

このように聞くと、21世紀に入って新たに注目されるようになったイメージを持つかもしれない。ところが、MIRAIが市場投入された当時、水素を原動力とする自動車はすでに存在していた。あくまでも官公庁向けの自動車として開発されていたものの、MIRAIより前に行動を走れる水素自動車が存在していたのは事実である。

実は、水素を燃料とした「水素内燃機関」の構想は、内燃機関が誕生した当時から注目されていた。そして水素を燃料とした水素内燃機関も、1807年当時には実現できていたのである。

その後もアメリカやフランスなどで水素内燃機関の発明は続いていたようだ。ただ、水素の生成が難しかったこと、水素の安全性が確保できなかったことから普及することはなかった。最終的には安全性・安定性の観点から合成ガスや石炭へと移行していくこととなった。

日本における水素自動車の研究

1807年、アイザック・リヴァズによる水素ガスを動力源とする自動車の草案。1807年1月30日の特許明細書を基に1958年にハンス・リスカが描いた図面。

一時は盛んに研究されていた水素内燃機関だったが、安全性や燃料の生成などの問題から、発明家たちの情熱は一気に下火となる。事実、1863年にジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアールによってイポモビルが製造されたのち、水素内燃機関の発明史に大きな動きはなかった。

ジャン=ジョゼフ=エティエンヌ・ルノワールが製作した大気圧エンジンを動力とする自動車。1860年6月18日発行の「Le Monde Illustré」に掲載されたデザイン画。

ところが、1970年代になって、事態は大きく動き出す。武蔵工業大学(現 東京都市大学)が、レシプロエンジンを改造した水素エンジン車両「MUSASHI」の研究を始めたのだ。中心人物である古濱 庄一氏はレシプロエンジンのピストンリングの研究の第一人者。その大家が水素エンジンの研究を始めたとあって、国内の自動車メーカーは大いに湧いたであろう。また、京都国際会議(COP3)では武蔵10号が出展されたのも、古濱氏の大きな功績と言える。

その後はマツダとBMWによる水素エンジンの共同開発や日野自動車と武蔵工業大学との連携による水素エンジン搭載バスの開発など、水素エンジンの開発が盛んとなった。しかしいずれも一般消費者向けに販売されることはなく、官公庁や行政に納車されるばかり。世界各国の動きを見ても同様であり、市販化はまだ先のことではないかと言われていた。

武蔵2号車(東京都市大学HPより)

鳴り物入りで登場したMIRAI。しかし…

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