今だから全部話すT中研™盛衰秘話 ③「クルマの神様」と「特選外車情報エフロード」
福野礼一郎のTOKYO中古車研究所™ 第159回
「TOKYO中古車研究所」などと大袈裟なタイトルですが、私=福野礼一郎が1993年から2012年まで自動車雑誌3誌で152回連載し、多くの方に読んでいただいた連載記事のタイトルの復刻です。Topper編集部の依頼で11年ぶりに連載再開しますが、内容的には単なる「私的ブログ」です。Topperのコンテンツの中では一人浮いてると思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
TEXT&PHOTO:福野礼一郎(Rei-ichiro FUKUNO)
(このコンテンツは著者の希望でTOPPERの「総合人気ランキング」には反映されません)
(本文文字量13000字) *通常は雑誌1ページで2000〜2500字
「くるまにあ」+T中研™の終焉
福野礼一郎 「CarEx」の編集の約6割を受注していた社外編集プロダクションのG-Worksとともにチームごと同誌と訣別、自動車雑誌「くるまにあ」の復刊第1号に製作チーム丸ごと引越したのが1996年夏。そのタイミングで「CAR STATION」という自動車雑誌から編集者として「くるまにあ」に移動してきたのが、1987年に株式会社マガジンボックスに入社して9年間くらい編集者の経験を積んでいた古屋 久さんこと古Q(「くるまにあ」「特選外車情報エフロード」「A Cars」の元編集長)。一流ヅラして乗り込んできた我々「福野組」の仕事のやり方にえらく驚いたということでした。
古Q 編集長のN山は編集費の金使いの凄さに驚いてました(笑)。
福野 アタマがバブルのままだっただけです。お恥ずかしい限りです。
古Q でもネット情報で知って「CarEx」から「くるまにあ」に乗り換えてくださった方もたくさんおられたので、雑誌は滑り出しから好調に売れました。
福野 復刊第1号の1996年9月号から97年9月号までの1年間は「CarEx」のときのノリのまま、外部編集プロダクションG-Worksの浜口浩太朗ディレクターが巻頭特集の編集総指揮を担当、私はアイディアを出したり原稿を書いてたりしてライターとして参画してました。もちろん並行して「Begin」や女性誌などの一般誌も含めいろんな雑誌の仕事をしてましたから、「くるまにあ」に関わっていたのは取材と執筆合わせても月に3~4日間くらいでした。1997年10月号から「雑誌の中にもう1冊別の雑誌がある」みたいな「ブックinブック」形式の連載「TOKYO中古車研究所™」をスタートしたわけですが、ここから以降は私も企画とコンテ作りの段階から参画して、毎月かなりの時間を傾注するようになりました。
良心的中古車屋スティックシフト社長荒井克尚 「くるまにあ」の営業さんが中古車屋さんに広告取りにまわったときに「あのページはうちとは関係ないですから」って言い逃れできるように考えた詭弁的アイディアと言うことでした。
福野 連載の3年目、2000年10月号から、編集部内でT中研™に一番理解があった古屋さんが「くるまにあ」の編集長に昇格、これで企画や編集の自由度がさらに上がりました。「ふた夏のポンコツ中古車」「東京モーターショーねりあるきツアー」「クルマ・バブル・みんなアホ」「クルマにいいこと無駄なコト」「東京メトロテスト」「ダメグルマ ポンコツ車を見抜く方法」「極上中古車を作る方法」などなど、いろんな企画をひねり出しながら毎月制作しました。