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新クルマの教室:初代セルシオ XF10型(1)

自動車設計者 X 福野礼一郎 [座談] 過去日本車の反省と再検証

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新クルマの教室:初代セルシオ XF10型(1)

本稿は本職の自動車設計者と一緒に過去旧車・過去名車を再検証する座談記事です。決して「過去の旧車をとりあげて現在の技術を背景に上から目線でけなす」などという意図のものではありません。根底にある意識は「反省」です。設計者が匿名なのは各意見に対する読者の皆様の予断を廃し、講師ご自身も誰にも忖度せず自社製品でも他社製品でも褒めるものは褒める、指摘するものは指摘できる、その自由度の確保のためです。よろしくお願いいたします。
(このコンテンツは著者の希望でTOPPERの「総合人気ランキング」には反映されません)

座談出席者

自動車設計者
 国内自動車メーカーA社OB
 元車両開発責任者

シャシ設計者
 国内自動車メーカーB社OB
 元車両開発部署所属

エンジン設計者
 国内自動車メーカーC社勤務
 エンジン設計部署所属

トヨタ・セルシオ(1989年10月9日発表・発売 初代XF10型)
⬛︎ 全長×全幅×全高:4995×1820×1425mm ホイルベース:2815mm トレッド:1565mm/1555mm カタログ車重:1730kg 燃料タンク容量:85ℓ 最小回転半径:5.5m 下記テスト時の装着タイヤ:前後ブリヂストン SF-321 215/65R15(空気圧指定2.0kgf/c㎡) 出力:260PS/5400rpm 最大トルク:36.0kgm/4600rpm(いずれもnet表記)
⬛︎ 4ATギヤ比:①2.531 ②1.531 ③1.000 ④0.705 最終減速比:3.916 エンジン1000rpmあたり速度:①12.1km/h ②19.9km/h ③30.5km/h ④43.3km/h
⬛︎ MFRTによる実測車重:1774.5kg(前軸960.0kg/後軸814.5kg) 前後重量配分:54.1:45.9
⬛︎ MFRTによる実測駆動輪出力:未計測
⬛︎ MFRTによる実測性能 5MT車:0-100km/h 7.83秒 0-400m 15.59秒  最高速度:未計測
⬛︎ MFRTによる車内騒音計測値:40km/h時50.5dB/A、60km/h時53.5dB/A、100km/h時60.0dB/A
⬛︎ MFRTによる実用最小外側回転半径:6.02m
⬛︎ 発表当時の販売価格(1989年10月発売時):530.0万円
⬛︎ 生産・販売台数:28万5566台(平均約4681台) 国内販売台数:11万5444台(59ヶ月平均約1957台/月) U.S.販売台数:17万122台(61ヶ月平均約2789台/月)

初代LS400=セルシオ

ー みなさんこんにちは。今回取り上げるのは初代XF10型「レクサスLS400」とその国内向け仕様車「セルシオLS400」です。ややこしいので本稿ではレクサスLS400=セルシオLS400として単に「LS400」、あるいは「初代LS」「LS」などとその都度適宜呼び分けることにします。

自動車設計者 「セルシオLS400」というクルマはこの世に存在しませんが、それは福野さんの造語ですか?

ー ただの「セルシオ」でしたっけ。そうでしたね。

ー ただのセルシオ=レクサスLS400もまたバブル絶頂期に登場したバブルの申し子だったわけですが、静粛性、乗り心地、快適性といった点において、その後の世界の自動車開発に非常に大きな影響を与えた日本車だったと思います。当時数えてみたんですが、70年代から80年代にかけて日本では9社の乗用車メーカーがおおむね150車種くらいのクルマを生産販売してました。これがバブル期のカネあまりで各社がどんどんどんどん車種数を増やしていった結果、80年代の終わりごろにはおよそ350車種まで膨らんでいたんですね。そのなかにはマツダ・ロードスターの回で話題に出たユーノス・ブランド車のように、一代限りのバブルの徒花に終わった車種もたくさんあったわけですが、「バブルが世界のクルマに何かを残した」という意味では、初代LS400は日産パイクカーと並んで少なくない影響力があったと思います。2012年にはついにゴルフ(Vll)にまでその影響がおよんだわけですから。

自動車設計者 まさに「悪貨は良貨を駆逐する」ですね。

ー レクサスLS400は1989年1月11日からミシガン州デトロイト市で開催された北米国際自動車ショー(North American International Auto Show)で、北米における新しいトヨタの販売チャンネルである「LEXUS」の名称とともにお披露目、生産第一陣は6月下旬に日本を出発し、9月1日から1990年モデルとして全米に81ヶ所に展開した新しいレクサス店で販売を開始しました。カムリの横置きV6エンジン版「カムリ・プロミネント(1987年4月発売)」をベースにした「レクサスES250」もこのとき同時に廉価版レクサス車として販売を開始しています。

ー アメリカでの発表後、日本でも新聞やTV、自動車雑誌などが大々的に報道しました。また1989年8月にトヨタは総勢約70人の新聞記者と自動車マスコミ関係者を順次ドイツに招いて、左ハンドルの北米仕様車(足回りのみヨーロッパ仕様)にアウトバーンで試乗させました。こういうティーザー広告効果もあって、1989年10月9日に国内仕様車をただのセルシオとして発表したときは、すでにその存在や内容、評価は広く知れ渡っていました。ちなみに私もドイツ試乗会に呼ばれ、アウトバーンで乗って静粛性と滑るような乗り心地に感銘をうけました。カー・オブ・ザ・イヤーの選考委員だけで10人くらいはLSを買ったんじゃないかと思いますが、私もドイツで乗って現地で「口頭予約」しました。

1989年10月9日月曜日16時15分より開催されたトヨタ・セルシオの新車発表会

エンジン設計者 そのときトヨタの役員がセルシオという国内名称を漏らしたという話をどこかに書いてましたね。

ー グラーフェンブルックのケンピンスキー・ホテルのサウナです。トヨタの重役の方とたまたま一緒になって、その方から聞きました。その日のうちにスクープ情報として日本に広まりました(笑)。

エンジン設計者 それはセリカ/カリーナのチーフエンジニアだった和田明広さん?

ー いえいえ違います違います。和田さんもドイツにはお見えになってましたが、バスの中でのみんなの会話のときに私が「当然日本でもレクサスの名前で売るでしょう。そうでないとセンチュリーとクラウンとの競合を区別化できないから」と言ったら、そこまで黙って聞いていた和田さんが突然「ぶー」と一言だけ言ったんです(笑)。それで「日本はレクサス名じゃねえのか!」ということになって、そこから「日本名」探しが始まった。いろんな方に聞いてたら某重役がうっかりゲロったと。

エンジン設計者 和田さんは呼び水だったんですね。

ー 米国のレクサス側からの抗議もあったようで日本ではレクサス名が使えず、セルシオなんていうなんとも陳腐な車名でトヨタ店とトヨペット店で売ることになったわけですが、国内正式発表直後から大変な争奪戦になりました。クラウンはワイドボディ車以外はまだ基本5ナンバーだったし、マジェスタ(初代S140型)とその兄弟車アリスト(初代JZS140型)は1991年の登場ですから、ただのセルシオでもプレミア感は圧倒的でした。

ー バブルの勢いもあって予想を大きく超える注文がどんどん入ったわけですが、当然アメリカにも送らなきゃいけないし、先方は「こっちに優先権がある」と思ってますから「納車時期未定」という状況が続いて、長年トヨタ店やトヨペット店でクルマを買ってきたお客さんは、みんな怒ってました。というかそれ以前にディーラー自体が「まったく情報が来ない」「カタログさえ部数が足りない」と困惑してました。三栄の「すべてシリーズ」には後半ページに毎回カタログが縮刷されているんですが、ディーラーでは仕方なくあの本を買い集めてきて、カタログの代わりにお客さんに配ってました。だからたしかあの号は何回も増刷したんじゃなかったかな。性能どうの、静粛性どうたらの前に「クラウンの上級車登場!」というその存在感だけですでに異常な注目を浴びたクルマでした。

ー で11月後半になって国内で広報車の貸し出しが始まって、よせばいいのに調子こいて、それ借りて麹町のトヨペット店(トヨタ側の指定)に購入の契約をしに乗って出かけたんですが、ディーラー向け内見会すら一度もなかったらしく、「あ、セルシオだ」ってんで商談なんかそっちのけ、社内からセールスやらメカニックが続々と集まってきて、ボンネット開けてトランク開けて地面に寝そべって寄ってたかってセルシオ観察大会になり、トヨタの優良販売店っていうのはさすが熱心さ半端ねえなと感心してたら、ついには「30分でいいから貸してもらえないか」と言って5人で乗り合わせてどっかに走りに行ってしまった。事故でも起こされたらどう言い訳しようかとひやひやしながら小1時間ショールームでクラウンと一緒にぽつんと待ってました。あの熱気は本当にすごかったです。

シャシ設計者 ほぼ同時(1ヶ月遅れ)に発表された日産のインフィニティQ45に関しては、そこまで人気は盛り上がらなかったわけですから「3ナンバー高級車ならなんでも注目された」わけではないでしょう。

エンジン設計者 Q45はあの「カオナシ」だけでもうダメだったというのが定説ですが、日産のセド/グロのヘビーユーザーは3ナンバーのシーマが出たとき飛びついてすでに買っちゃってたんではないかと思うんですよ。そこにQ45が出ても「なんだもうシーマ買っちゃったよ」って。一方クラウンのお客さんは「シーマ現象」を苦々しく横目で見てたから、セルシオが出て「キターっ!」って。

シャシ設計者 それは面白い分析です。Q45の失敗はシーマに食われたからだと(笑)。

ー 初代シーマはデザイナー出身のチーフエンジニアが企画した「セドリック/グロリアのかぶせもん」で、私は当時「シーマはデカいパイクカーである」と分析してたんですが、発売時期から言ってもシーマが開発中のQ45のスタイリングやパッケージの影響を受けていたのは当然だと思います。シーマは「加速の迫力」みたいな性能イメージでもウケてたから、日産はシーマに続いてQ45も絶対売れると確信していたんではないでしょうか。

シャシ設計者 満を持して開発した超大作が、それを横目に見ながらでっち上げて先に出したかぶせもんのパイクカーに喰われて大失敗したとすれば、泣くに泣けませんね。「クルマの教室」でやったように、シーマはリヤサスにセミトレーリングアームなんか使ってたから、アンチスクオート率がマイナスになってて、発進時にはリヤが荷重移動分よりもさらに大きく沈み込む。あれが「いかにも速そうでカッコいい」とウケたというアホのような話でしたね(実際にはリヤが下がり切るまで駆動輪にトラクションがかからないから出足はノロい)。

ー Q45についてはいずれ本稿でも取り上げたいと思いますが、本命であるアメリカでの販売でもLS400の後塵を拝しました。1989年から1994年までの6年間で、LS400のU.S.市場の販売台数は17万122台で61ヶ月平均約2789台/月、対してQ45は6万5562台で平均月販1000台ちょっとです。

エンジン設計者 でも思ったよりアメリカで売れてたんですね。アメリカでも大コケしたのかと思ってました。

ー 「七宝焼のエンブレム」とか、日本仕様だけのオプションですが「工芸家が手作りする金粉蒔絵のインパネ」などに象徴されていたように、Q45の「日本アピール」はどこか完全に滑ってました。「日本」を意識しすぎたときに常に踏みやすい典型的なトラップだと思います。2017年に5代目レクサスLS500が出たときも「工芸品手作りオプション」みたいのをあれこれ採用して滑りまくっていて「これぞインフィニティQ45の21世紀的再現だ」と失笑しました。

エンジン設計者 でも初代LSだって運慶・湛慶がどうのこうのって、さかんに日本的な造形であることをアピールしてましたよ(東大寺 南大門の阿形像・吽形像の二体の金剛力士像の雰囲気をLSのスタイリングに取り入れたというデザイナーの主張のこと)。

ー はい。でも誰がどう見ても初代LSはただのニセベンツですから(笑)。大変わかりやすい。

LSの特徴

エンジン設計者 性能については当時さかんに連呼されていたのが、とにかく「静粛性」でした。「モーターファン」誌1990年7月号掲載の「モーターファン・ロードテスト(MFRT)」でも騒音試験で60km/h時53.5dB/A、100km/h時60.0dB/Aという測定結果で、「すべてシリーズ」の比較試乗にもSクラス、BMW7シリーズと比較して60km/hで5dBくらいの差がついて「静かすぎて唖然とした」と書いてありました。

ー ドイツで乗ったときは路面が良かったこともあって、走り出した瞬間に驚きました。いまでいえば「生まれて初めてEVに乗った瞬間」みたいな感じです。

ー LS400に衝撃を受けたのは海外のメーカーの設計者も同じで、私が直接これを具体的に聞いたのはジャガーです。

ー 自動車メーカーではどこでもライバル車を買って研究していますが、実験部隊が走行試験をする車両とは別に、設計部門でもライバル車を買ってきて切り刻んで研究しますよね。一般的にはどこの会社でも全部品を分解して大きな白いパネルに一つ一つくくりつけ、材質、熱処理や塗装の仕様、重量などをメモして閲覧できるようにする方式が多いですが、1994年にジャガーに招待されてX300系のジャガーXJに試乗したとき、開発センターの廊下にLS400をバラバラにした研究用パネルを何十枚もずらりと並べ、日本の自動車雑誌と評論家にわざとらしく見せたんですね。「俺たちはこんだけLS400を徹底的に研究してXJを作ったんだから、XJも同じくらいすげえんだ」と(笑)。あんなアホな新車のアピールの仕方はあとにもさきにもあのときだけですが、チーフエンジニアは真顔で「LS400の静粛性や乗り心地には本当にショックを受けた」と語っていました。

自動車設計者 それはもうフォード傘下に入ってたからでしょう(1989年にフォードがBLから買収)。

ー さきほどLS400が世界のクルマに与えた影響について自動車設計者さんが「まさに悪貨は良貨を駆逐する」とおっしゃっていたのですが、「悪貨」というのは「クルマ作りの重点を静粛性や乗り心地におく」という考え方のことですか?

自動車設計者 「クルマ作りの重点を静粛性や乗り心地ばかりに置いて、肝心の走行性能やハンドリングなどをないがしろにする」というクルマ作りのことです。

エンジン設計者 LSがウケたのはようするにアメリカと日本だけでしょ。ヨーロッパでは相手にされなかった。それまでベンツやBMWやジャガーは、アメリカ人に「オレらのクルマが世界一なんだから、だまってこれ買っとけ」と言ってたのが、レクサスLSが予想外に売れしたんで、どうにも無視できなくなって仕方なく追従したというだけのことで、ようするにアメリカ人が「悪貨」を受け入れたから、ベンツやBMWまで悪貨に染まって行かざるを得なかったということでしょう。

シャシ設計者 レクサスがアメリカでウケたのは安かったからですよ。ベンツやBMWが4万ドル代だった時代に3万何千ドルでしょ。もちろん失望させないだけの内容があったからこそ売れたんでしょうが。あとはリコールがあったときに神対応したので評判が逆に上がったとかいう話もありましたが。

自動車設計者 当時、社内でも出たばかりのLS400を買ってみんなで乗ったんですが、夜間、後席に乗って暗い道を走っていたら、あまりにも車内が静かすぎて、一瞬恐怖を感じるという体験をしました。革シートと洋服が擦れ合うきゅっきゅという音だけが車内に響いて、なんとも不気味で、あのときは一刻も早く家に帰りたかった。クルマに乗っていてあんな恐怖感を覚えたことはありません。ほかのことについては私はよく知りませんが、とにかく何か得体の知れない悪霊の世界に迷い込んだような恐怖感、セルシオというクルマにはそういう印象しかありません。

シャシ設計者 私も乗りましたが、あれは定在波が出てますよね。どこかに閉じ込められたり、あまりに周囲が静かだと「しーん」としますが、定在波とはそのことです。「しーん」という音が実際にしてる。セルシオは「定在波の聞こえるクルマ」で、車内がいつも「しーん」としてとにかくつねに耳鳴りがしているようで気持ち悪かったです。

エンジン設計者 無響室に入った感じですよね。五感のバランスの中で音だけが静かすぎるからなんかおかしいんでしょう。

ー 1989年12月24日にLS400が納車されて約2年間、私は本当に楽しく快適に乗りました。「静かだから嫌だった」「快適だったから不愉快だった」ということは私の場合はありませんでした。さっきドイツで乗って驚いたと言いましたが、静かで乗り心地がいいクルマということだけなら、別にLSが初めてではなかったです。1970年中盤にリンカーンMKlllとMkIVに乗り継ぎましたし、友人のキャディラック・エルドラドも借りてよく乗ってました。どれも車内は大変静かだったし乗り心地も良かったです。何度か乗る機会があったロールスやベントレーも同様でした。そのころだって高級車はすでに大変静かで乗り心地のいいクルマだった。でもみんなデカくて重かった。LSが画期的だと思ったのは、Sクラスのサイズと車重なのに、巨大なロールスロイス並みに静かで乗り心地が良かったからです。「ミニサイズの高級車、これこそ日本にしかできない日本ならではの高級車だ」と、そこに感激しました。だからQ45には何も感激しなかった。あれは乗ってみるとただのベンツ+BMW÷2で、七宝焼意外に日本的なところはどこもなかった。あれだったらだまってベンツ買った方がいい。LS400はトヨタにしか作れないクルマだった。そこが良かった。

自動車設計者 まあ「静かで乗り心地がいい」というのは高級車の王道であるとは思いますよ。

ー LSは確かに車内がちょっとつーんとして、会話明瞭性に劣る傾向はありましたね。2007年4月に防音材の日本特殊塗料株式会社(ニットク)に取材に行ったとき、ドイツ車、特にBMWはゴムを使った遮音材(=重い)を多用する傾向があるけど、初代LSは軽量化のためにフェルトの吸音材を大量に使ったと聞きました。当時の吸音材はまだ反射層の効果が十分ではなかったので、会話の周波数成分までどんどん吸って減衰しちゃって(一部が表面で反射しても別の吸音材がそれを吸って減衰するという繰り返しで車内がどんどん静かになっていく)、それで無響室のようにつーんとする傾向があったと。

著者
福野礼一郎
自動車評論家

東京都生まれ。自動車評論家。自動車の特質を慣例や風評に頼らず、材質や構造から冷静に分析し論評。自動車に限らない機械に対する旺盛な知識欲が緻密な取材を呼び、積み重ねてきた経験と相乗し、独自の世界を築くに至っている。著書は『クルマはかくして作られる』シリーズ(二玄社、カーグラフィック)、『スポーツカー論』『人とものの讃歌』(三栄)など多数。

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