新クルマの教室:8代目日産スカイラインR32型(2)
自動車設計者 X 福野礼一郎 [座談] 過去日本車の反省と再検証
本稿は本職の自動車設計者と一緒に過去旧車・過去名車を再検証する座談記事です。決して「過去の旧車をとりあげて現在の技術を背景に上から目線でけなす」などという低俗な意図のものではありません。根底にある意識は「反省」です。設計者が匿名なのは各意見に対する読者の皆様の予断を廃し、講師ご自身もまた誰にも忖度せず自社製品でも他社製品でも褒めるものは褒める、指摘するものは指摘できる、その自由度の確保のためです。よろしくお願いいたします。
座談出席者
自動車設計者
国内自動車メーカーA社OB
元車両開発責任者
シャシ設計者
国内自動車メーカーB社OB
元車両開発部署所属
エンジン設計者
国内自動車メーカーC社勤務
エンジン設計部署所属
日産 スカイラインGT-R(1989年8月21日発表・発売)
⬛︎ 全長×全幅×全高:4545×1755×1340mm ホイルベース:2615mm トレッド:1480mm/1480mm カタログ車重:1430kg 燃料タンク容量:72ℓ 最小回転半径:5.3m 下記テスト時の装着タイヤ:銘柄不記載225/50R16(空気圧不記載) 駆動輪出力(テスト時重量が1550kgとしたときの動力性能からの計算値):282PS/7800rpm
⬛︎ 5MTギヤ比:①3.214 ②1.925 ③1.302 ④1.000 ⑤0.752 最終減速比:4.111 モーターファン誌1989年11月号におけるJARI周回路での実測値(テスト時重量計算値1550kg):0-100km/h 5.36秒 0-400m 13.58秒
⬛︎ 発表当時の販売価格(1989年8月発売時):445.0万円
⬛︎ 発表日:1989年5月22日 販売販売累計 R32型スカイライン全体: 31万1392台(52ヶ月平均6000台/月)GT-R:4万3934台(49ヶ月平均900台/月)
伊藤元主管の著書による8代目スカイラインR32の開発経緯
ー 8代目スカイラインR32は1989年5月22日に発表・発売、いまではR32といえばGT-Rのことをまず思い出してしまいますが、2.6ℓツインターボエンジン/スタンバイ式4WD/スーパーHICASを搭載したGT-Rは、少し遅れて89年8月21日の発売でした。
ー R32のチーフエンジニア(当時の日産社内呼称では「開発主管」)は富士精密工業時代のプリンス自動車に就職しシャシ設計課のサスペンショングループに配属、櫻井眞一郎さんの下でS54B以降の歴代スカイラインの開発に参加してきた伊藤修令さん。
ー 伊藤さんがご自身で著述された「走りの追求 R32スカイラインGT-Rの開発(グランプリ出版)」には、C10からR31まで21年間スカイラインで使われた前後サスペンション(前ストラット/後セミトレーリングアーム)は伊藤さんがC10用に設計したものが原型だったと書いてあります。
ー 1984年12月、7代目R31型スカイラインの開発中に櫻井眞一郎さんが病気で倒れ、C32ローレルとF31レパードの担当だった伊藤さんが急遽スカイラインの開発責任者を引き継ぎます。当時はX60型マークll3兄弟(4代目マークll/2代目チェイサー/初代クレスタ)が「ハイソカー」などと呼ばれて年間20万台以上を売りまくっていた時期で、日産はローレル/スカイラインの高級車路線をさらに押し進めてマークll3兄弟に対抗する戦術をとったのですが、R31を発売してみると、自動車評論家から「マークllみたいでスカイラインらしくない」「豪華装備などいらない」「クルマが大きくて重い」「RB20DETTが思ったほどパワフルではない」などと酷評を浴びたということでした。
ー 当時実は私もカー・オブ・ザ・なんちゃらの審査員などやっていい気になっていましたから、栃木工場で行われたカーオブ審査員専用試乗会で7thスカイラインに試乗させていただいて、試乗後の全員ミーティングで「カセットオートチェンジャー」や「カード式エントリー」「コーヒーブレイクタイマー」などのギミック装備の陳腐さを酷評した記憶があります。そのときの伊藤さんの「それをここでいわんでくれ」という困ったようなお顔が、いまでも脳裏に焼き付いています。
ー 評論家にボロクソに言われたことで発奮した、と伊藤さんは書いておられますが、自動車メーカーのチーフエンジニアが評論家なんかの評価を当時そこまで真摯に受け止めておられたというのは、読んでいて逆にちょっと驚きでした。
ー 伊藤さんは急遽RB20型エンジンの性能向上を設計部門に依頼するとともにR31の2ドアモデルの開発に着手、これを86年5月にGTSとして投入します。またグループAのホモロゲーション取得用に最高性能版GTS-Rも開発し800台を限定生産、87年のインターTECレース参戦するなどリベンジを試みます。そういうムードの中でR32の開発をスタートしたということでした。