自動車の「現実」と「しがらみ」 その3・ゼロスタート後編「もう一度敗戦を味わうのか」
牧野茂雄の「車交箪笥」しゃこうだんす vol.14
長くやってりゃ情報ルートと人脈は築ける。
もうかれこれ40年以上、自動車を取材してきたから、
結構なネットワークを持つことができた。
あちこち掘って、あちこち探ったネタを、
私個人の分析と私の価値観でお届けします。
TEXT:牧野茂雄(Shigeo MAKINO)
戦後に日本の自動車産業の基礎を築いたのは軍用機に携わったエンジニア、サプライヤー、そして航空機メーカーだった。日本はアメリカなど戦勝国により航空機開発が禁止され、航空機産業は仕事を失った。ここの人的資産と産業基盤の多くが自動車造りに集結した。世界から「奇跡」と呼ばれた日本の戦後復興の中に自動車があった。そして、航空機開発も約8年のブランクの後に再開されたが、戦前戦中とは産業規模があまりに違いすぎ、国産化イコール高コストという構図からいまだに逃れられないでいる。いっぽう自動車産業の競争力は健在だが、以前ほど大きな革新が見られなくなった。もし、自動車が敗戦に追い込まれたら……日本はどうなる?
2008年に愛知機械を取材した際、工場敷地から海に続く運河へとスロープが設置されているのを見た。何のためだろうと思って尋ねたら「その昔、この工場で完成した水上機の完成検査飛行と海軍への納入を行うために設けられたもの」とのことだった。愛知零式三座水上偵察機や潜水艦搭載水上攻撃機「晴嵐」をここで作っていたのだ。愛知航空機は愛知起業、新愛知起業を経て愛知機械工業となり、2008年の工場内では日産GT-R用の変速機が作られていた。
トラックボディ架装や輸送関連機器、産業機器などを手がける新明和工業は、1945年までは川西航空機という会社だった。もっとも有名な機体は川西二式大型飛行艇(大艇)。連合軍が「エミリー」と呼んだ優美な飛行艇は、当時の水準を遥かに超えた7,400kmの航続距離を誇った。新明和工業の前身である戦後の明和工業は明和自動車工業と新明和興業とに分割され、明和自動車はダイハツが吸収した。
新明和工業は1960年代に入り飛行艇開発を再開した。1970年に対潜哨戒機型PS-1、のちにここから派生した海難救助型のUS-1を完成させた。現在はUS-1のビッグマイナーチェンジ型である救難機US-2を生産している。
川崎重工業は1939年からこの社名である。航空機部門だった川崎航空機は現在、川崎重工業航空宇宙システムカンパニーとなり、自衛隊のジェット輸送機C-2、哨戒機P-1、練習機T-4(ブルーインパルスでも使用)などを生産している。
非常に興味深いのは、海上自衛隊が現在使っている国産対潜哨戒機P−1の製造には三菱重工、スバル、新明和工業などが参画し、オールジャパン体制が敷かれた点だ。さらにさらに興味深い点は、日本製鋼(NSK)が開発したハーフトロイダル型IVT(無段変速機)を使った航空機用発電システム、川崎T-IDGを初搭載した機体であることだ。
現在、すべてのターボファン旅客機(ボーイング777、787、エアバスAシリーズなど)および、これを改造した大型軍用機に使われている発電機は、油圧式無段変速機構を備える古い設計であり効率が低い。いっぽう、NSKのハーフトロイダルIVT(Infinitely Variable Transmission=変速比無限大変速機)は極めて効率が高く、しかも小型であり、ターボファンエンジンの運転状況にかかわらず、つねに一定周波数発電が可能なシステムである。これを使った民間航空機用発電機を、川崎重工はボーイングなどにも売り込んでいる。
NSKのハーフトロイダルIVTといえば、「ハーフトロイダルCVT」として1999年に実用化され日産車に搭載されたことを思い出す。当時はほんの少数だけが量産されたが、NSKはこれをICE横置きFF車に搭載できるよう改良し、それがターボファンエンジンと発電機の間の「調整」に最適であることから川崎重工が採用を決めた。
このハーフトロイダルIVTの開発もゼロスタートであり、開発に成功し市販に漕ぎ着けた一例である。しかし、ユニット単価があまりに高く、市販車向けの変速機としては試験的採用に終わった。開発実績と「ここをこうすればさらに性能が良くなる」という知見を自動車以外の分野で活かせたのは幸運だが、世界的にまったく流行らなかった。
その発展型が航空機に採用されたのは、ある意味、開発を継続したNSKの意地だ。しかし、自衛隊向けでは数が出ないから単価は高止まりになる。川崎重工を通じ民間機への採用という道が開けることに期待したい。